茂山家は大蔵流狂言方として代々京都で活躍していたが、1821年八世茂山久蔵の代で一度中断をした。久蔵の弟子、佐々木 忠三郎(千五郎正虎)と弟弟子の小林 卯之助(初代忠三郎)は大蔵家元の弟子となり、1825年茂山家の再興を許された。今の茂山 千五郎家と茂山 忠三郎家である。
両家は京都の狂言方として舞台での共演も多く、関西の狂言界を支えている。
茂山 忠三郎家当主は「重厚で骨格の大きい芸。土の匂いを残しつつも泥臭くならない芸。謡・舞を鍛えて写実にかたよらない様式の美をも大事にする芸」を大事にしていきたいと考えている。すなわち、観客には印象が後に残り、含み笑いを残すような《含みのある狂言》を理想としている。大名・果報者から太郎冠者まで幅広い役柄をこなし、その芸風は「堅実にして円味と軽妙さを備えている」と評される家の伝統を継承しつつ、常に華やかさを失わない。体全体から狂言らしさを発散し、狂言師として完熟した時期を迎えているといわれている。